日々の色々・The colour of the sun

このブログは最近ぜんぜん更新していないですが、今年の2月からは別のサイトで同じようなテーマについて書いていますので、今回はそのブログを紹介したいと思います。

ブログは「日々の色々・The colour of the sun」という名称で、3人の友達でやっています。「しお」というニックネームで書いている僕と一緒に、イタリアから留学しに来た「しらふ」さん、韓国から来た日本の演劇について研究している「よん」さんもブログのエントリーを、当番で週に一本というペースで書いています。今までは5本の記事をアップしてきました。一人ひとりは別の興味を持っていますが、共通のテーマとしては「ズレた視点から見る日本」について書いています。

具体的に言うと、僕自身は「言語」や「翻訳」、「日本語と英語の違い」などについて興味を持って、しらふさんはジャーナリズムやメディア、よんさんは日本の文化、特に日本の演劇について中心しています。でも同じテーマについて別の視点から見ることも価値があるというわけで、一人ひとりのテーマは決まっていないです。

ブログの名前は鈴木孝夫氏(すずきたかお)という言語学者・評論家の「日本語と外国語」という本の中から取られている。鈴木さんは、言語の間の違いを注目するために、次の話を紹介する(p.38-39):

ある日のこと大学から戻った私に突然、家内が「英語で太陽の色は何色かしら」と言った。私が「そんなこと赤に決まっているじゃないか」と答えると、「そうでしょう、でもうまく合わないのよ」と、新聞のクロスワード・パズルを持って来た。


太陽の色(The color of the sun)というヒントに従って赤(red)を入れると、文字欄が三つ余ってしまうというのだ。私が変だなと言いながらも、思いつくままにいろいろな色彩名をいれてみた。すると黄(yellow)なら上下・左右ともピッタリすることが分かったのである。


しかし太陽の色が黄色とは、どう考えても変だということで、さっそくアメリカ人の知人に電話をかけてみた。すると誰もが、黄色に決まっているじゃないか、どうしそんな馬鹿なことを、わざわざ聞くのかといった調子なので、本当に驚いてしまった。


日本人である私たち二人の心の中には、小さな子供の頃から《白地に赤く、日の丸染めて、ああ美しや、日本の旗は。。。》の「日の丸」の歌をはじめ、白い御飯の真中に赤い梅干し一つの日の丸弁当、そして小さな子供たちの描く太陽の絵はみんな赤いクレヨンの丸だったことなどすべてが、太陽は赤いものという確信を育てていたのだ。それが黄色だなんて、それじゃ月じゃないか、というのが私たちの率直な反応だったのである。

「太陽の色」というこの鈴木孝夫氏が挙げた例と同じように、僕たち3人が同じ日本に住んでいても、同じ日本について書いていても、「太陽」という当たり前なことが、自分の言語により、自分の文化により、自分の歴史により違って見える。「The colour of the sun」というこのブログでは、この違って見えることをできるだけ読者に伝えようとする。

もし「The blogger formerly known as 塩」の読者がまだいたら、ぜひぜひ「The colour of the sun」を読んで見てください!

kenan氏とlyphard氏は日本の「gnarlykitty」?

gnarlykitty」というのは、タイのブロガーのハンドルネーム。彼女のエントリーはほとんど友達が読むもので、取り上げるトピックはガジェット、ビデオ、音楽、バンコックのクラブシーン、学校に対しての文句など。ブログの色はピンク、モットーは「Oh! See what the cat drags in!」というふざけたたキャッチフレーズ。

2006年の秋には、gnarlykitty氏はバンコックの大学に通っていた。ジャーナリストという意図もなくて、ごく普通の学生だった。で、ある日、gnarlykitty氏は突然台風の目になった。

それは2006年9月19日、タイの王国陸軍が無血クーデターを起こした日だった。幾つかの英語で書いているタイのブログがいきなり世界中の人々の注目を浴びて、「gnarlykitty」はその一つとしてヒット数が急に上がって、彼女はあの瞬間から世界の舞台でクーデターの目撃として情報を流す役目を果たすことになった。海外にいる人が細切れの情報を探して、それでサーチエンジンを通じて彼女のブログをたまたま見つけて、あるプロジャーナリストも彼女の書いた文章を記事で引用したまで。その結果、元々そういうつもりはなかったのに、彼女は考えずに「random act of journalism」を犯して、結局gnarlykitty氏というブロガーがしばらくの間有名な「市民ジャーナリスト」になった。

私はグローバル・ボイスの創立者の一人のレベッカ・マッキノン氏(現在香港大学の准教授)から、一年ぐらい前にこのgnarlykittyの話をはじめて聞いた。正直言うと、最近までは私にとってあまり目立たない話だと思っていた。偶然適時適所に居合わせることで、「ジャーナリスト」という肩書きがあるブロガーに付けられるようになるって、別に驚くことではない、というふうに考えていた。

でもこの2週間ずっと考えているのは、秋葉原通り魔の話の中の、kenan氏とlyphard氏がustで事件を中継したことは、gnarlykitty 氏の「random act of journalism」という「市民ジャーナリズム」のことと似ているのではないか?というか、kenan氏とlyphard氏のやったことは、ある意味でgnarlykitty氏のやったことより、ずっと面白くて、市民メディアの革命として画期的だと私は思う。

でも基本的には、両方も似ている。gnarlykitty氏も、kenan氏とlyphard氏も、同じようにメディアを置き換える意図はもちろん、ジャーナリストになる考えも全くなかった。しばらくジャーナリストの立場にたっても、その後すぐ普通の生活に戻る。クーデターの一週間後では gnarlykitty氏がこう書いた

... I am no expert at the subject (Coup, or politics in general). I don't even know how to use some of the terms to identify those "officials" in Thai or even in English. But the reason why I am blogging about this is that it is the least I can do to help report what is really going on while other channels of communications are altered, tampered, or even stopped.

私はこの問題(クーデター、または一般の政治)の専門家ではない。タイ語でも英語でも、あの「当局」を示す用語の使い方さえ分からない。でもこのことについてブログで書く理由は、他のコミュニケーション経路が変えられ、改ざんされ、妨害までされる中で、実態を伝えることが私にできるせめてものことだ。

そして、lyphard氏が11日に運営しているブログ「ぐんにょりくもりぞら」でこう書いた

今回の件はこれほど大きな事件がustという個人が配信するメディアを用いて配信された恐らく日本初(下手したら世界初)の事例ですので大事になるのも仕方がない、記事にしてもそれをやらかした張本人が書いたものなのだから、というのは頭では理解しています。


しかし、私がしたのは普段の延長でしかありません。
ついさっきまでしたリナカフェの様子を中継していたのの延長だし、記事も普段のぐんにょり日記でしかありません(カテゴリがぐんにょりなのもその為)

gnarlykitty 氏の「random act of journalism」も、今回のkenan氏とlyphard氏の生中継も、自分なりに藤代裕之氏が書いた「『野次馬』と『報道』の境界」の根本を揺るがした。両方も、ある意味で普段の生活の延長で、適時適所に居合わせることで、境界が融解して、そのときまでの『野次馬』の立場が突然『報道』の立場になった。

しかし、この2つの間で、何かが違う。それはいったい何なのか。

よく考えると、違いはいくつかあるのだが、もっとも重要なのが「観客」と「反応」だと私は思う。gnarlykitty氏の場合は、観客は海外の人々で、人気があったのは書いた情報が大手メディアの報道より詳しかったからだ。それと比べて、kenan氏とlyphard氏の場合は視聴者がほとんど日本人で、その中継の人気は好奇心と興奮という感情から生まれたようだ。それから反応は、gnarlykittyの場合、海外の人びとにクーデターのことについて伝えられたこととして、高く評価された。それと違って、kenan氏とlyphard氏の生中継は、「不謹慎だ」とか、「異常だ」などという非常に厳しい反応がきたそうだ。

でも私は、kenan氏とlyphard氏がやったことは、善悪は置いておいて、海外の目からみるとかなり画期的なターニングポイントだったと思われる。Lyphard氏が書いたとおり、確かに「世界初」だった。なのに、やったことは、日本意外では全く知られていない。(私の一つの記事意外は)ほとんど報道されていない。

それは残念なことだと私は思う。どうしてかというと、今回の通り魔事件を中継することがいいか、悪いか、という価値判断ではなく、しょうがなくてこれからはこういう「random acts of journalism」がだんだん増えるでしょう。でも海外の「市民ジャーナリズム」についてのディスカッションでは、今回の秋葉原事件の生中継という例は、今まで一つもなかったでしょう。通り魔事件の中継はgnarlykitty氏のような評価の高い市民ジャーナリズムの経験とはまったく違うし。そう考えると、世界中のインターネットウーザーはkenan氏とlyphard氏の経験の面、それから日本のウェブ社会の反応の面、マスメディアの反応の面、そのすべてのことから学ばないと本当にもったいない、だと私は思う。

私たちがこれから「メディア」という非常に権力を持つ立場になるなら、日本人だけではなく、世界中のインターネットユーザーはこういう経験が増える。kenan氏とlyphard氏の「モラルジレンマ」に考えてみると、その前に私たちは精神的な準備が必要のではないか。

ありがとうございます!

残念なこと、このブログを長い間は更新していないね。なのに、この数週間、アンカテのessaさんというブロガーのおかげで、新しい読者が私のブログを読んだり、スターをつけたり、それから自分たちのブログの中で私の僅かな3つのエントリーについて素敵な文章を書いて、ビックリ。というか、すごい嬉しかったです。

世間と空気

まずは、数週間前に、私はta26さんというブロガーの「どうしてここまで『ゲゲゲの鬼太郎』は人気があるんだろう」というエントリーを翻訳して、グローバル・ボイスの「Japan: The Secret of Mizuki Shigeru」という記事で紹介した。元々ta26のエントリーを読んだのは、essaさんが教えてくれたからだ。かなり面白いし、よく書けたエントリーなので、日本語の読めない人に紹介したかった。

そして、ta26さんが私の翻訳を見つけて、essaさんの記事を通じて「塩」を読んで、こう書いた:

また、サルツバーグさんの日本語のブログ記事を拝見して*1、カナダの人が、日本人にとってもかなり難しい概念である、『空気』や『世間』に注目されていることに驚いた。アンカテのessaさんが書かれているように、サルツバーグさんが、『ここで言及している次の記事は、自分としてはけっこう面白い記事になったという自信があったけど、予想した程は反響がなくて少しガッカリした』とおっしゃっているのは、まあ無理もあるまいと感じる。日本人相手であっても、この話題に興味を持って応じてくれる人はそう多くはないのではないか。大変奥深いテーマではあるのだが、『言語化』することは必ずしも簡単ではなく、意識的に興味を持って探求する人は案外少ない。

まずは、感謝したいね。本当に嬉しい。「カナダの人が、日本人にとってもかなり難しい概念である、『空気』や『世間』に注目されていることに驚いた。」という文を読んで、ブログを書くやる気がわいた。ありがとうございます!

でも実は正直にいうとね、「世間」という言葉の意味は、私はよく分からない。なんとなく「社会」との違いは分かるけど、だからと言って「世間」という概念自体は分かるとは言えない。確かに日本では大切な言葉だ、ということに去年ぐらいにはじめて気がついた。そのきっかけは、「空気と世間」というエントリーにも書いたけど、柳父章氏の「翻訳語成立事情」という本の最初の4章を読んだからだ。柳父氏は「社会」と「世間」の違いについて詳しく書いて、その大切さを強調したから、私もあの大切さをよく分かった。でも「世間」の本当の意味はね、まだ把握できないと思う。

だけど、ta26さんがエントリーを読んで、「世間」みたいな「英語には対応する概念がない日本語の言葉」の重要性を実感した。それから、エントリーの中で二人の山本七平氏と阿部謹也氏という「空気」と「世間」について書いた作家も紹介した。ウィキペディアによると山本七平氏が「空気」という題名の本を書いたらしい。(友達はあの本を見せてくれた気がするけど。)それから、アマゾンによると阿部謹也氏が「空気とはなにか」と言う本を書いた。 1995に出版したから、柳父章氏の「翻訳語成立事情」より最近の本。両方も面白そうだ、本当に。とくに後者の「空気とはなにか」の本は、本当に読みたい。

マッピング問題

それから、もう一人のモジックスというブロガーも、私のブログを読んで、去年の12「外国語とは」というエントリを取り上げて紹介した。「西洋人にとって外国語の習得は「マッピング問題」にすぎない」と言うエントリーで、こう書いた:

私の知る限り、外国人が日本に数年住んだ程度では、日常生活で使う漢字が読めるくらいで上出来であって、これほど流暢に日本語で「書ける」というのは、ちょっと信じられない。このサルツバーグさんのブログは、日本人の普通のブロガーと比べてもまったく遜色がないと思う(むしろ語彙が多いくらいかもしれない)。


モジックスさん、ありがとうございます!実は書くことはけっこう時間がかかるけどね。文や言葉の使い方は確認するために、よくグーグルを使う。「この文は変かなー」という感じがするときは、グーグルに記入すると、すぐ分かる。役に立つけど、だいぶ時間がかかる。

次に、モジックスさんが:

そして、ここに書かれている外国語についての知見も面白い。西洋人にとっては、外国語の習得は「マッピング問題」にすぎない、つまり単語と単語の「対応」(マッピング)を理解することにすぎないという。英語やフランス語、ドイツ語などを少しでも勉強すれば、そのことはおよそ想像はつくけれども、これだけはっきり書かれていると、やはり納得感がある。

実は時間があったらこの「マッピング問題」についていっぱい書けると思うけどね。今は翻訳をしているけど、カナダの大学にいたころは数学と物理を勉強してて、「人間の言葉」と「数学の記号」との違いについては昔から興味を持ってきた。(「人間の言葉」のほうが面白いと私は思うけどね。)今度このテーマについてもう少し書きたいな。

日本のブログ界の政治ブーム

でも実は、モジックスさんのブログは前も読んだことはあった。「日本のブログ界にも政治ブームか / ホリエモン小泉純一郎 / 政治広報戦略も「マス」から「バズ」へ」というエントリーを数ヶ月前に読んで、次の段落はけっこう面白いと思う:

おとといの郵政民営化法案否決・衆院解散を受けて、ブログでもこの話題が増えてきた。日本のブロガーがここまで政治を話題にしているのは、初めて見る気がする。


この感じは、ライブドア・フジ騒動のときの盛り上がりと似ていると思う。あのときは、ビジネスや経済に強い人やまさに本職の人が、マスメディアよりも早く、充実した解説をどんどん書いて、多くの人がそれを熱心に読んだ。


今回の解散総選挙でも、それと似たような盛り上がりが起きつつあると感じる。これまでであれば、テレビや新聞などのマスコミが主な情報源だったが、今回はそこにブログも有力な情報源として加わってきた。


解散総選挙へ至る経緯もなかなか劇的なものがあったし、ライブドア騒動でホリエモンがいたように、今回も小泉純一郎という役者がいる。保守層に反旗をひるがえし、反感を買う強気発言もするが、筋は通っており、ドン・キホーテ的に突き進むというところで、この2人は案外似ている気もする。

ボールド体の文は、私がこの間に書いた記事の中で翻訳して引用した部分だ。記事は「Reading the air, writing the news」というタイトルで、こんな感じ:

At a recent symposium on the future of journalism, prominent technology journalist Sasaki Toshinao identified two developments in 2005 that marked this difference.


The first, Livedoor CEO Horie Takafumi's attempt to take over NBS, radio affiliate of Japan's largest media conglomerate, met with hostility from the mainstream media. "The mass media were hammering on about Livedoor," he explained, "but on the net, there wasn't much bashing."


Prime Minister Koizumi's snap election, called shortly thereafter, produced a similar divide in opinion. Sasaki argued: "At that time, net users realized that they were in opposition with the mass media."


Japanese web visionary Umeda Mochio, in his bestselling "Theory of Web Evolution" (Web Shinkaron), makes a similar observation. "After a few hours," he writes, describing his experience scanning Japanese blogs before the election, "I was able to get a rough sense of it. And I was surprised. There seemed to be overwhelming support for Koizumi."


The observation was echoed by many in cyberspace. Open-source developer Sakurai Michiharu, writing as blogger mojix, described a "political boom" in Japanese blogs. "Up until now," he wrote, "mass media like television and newspapers were the main source of information. This time, though, blogs have entered as an influential source as well."

この文章にある「recent symposium」というのは11月に毎日新聞が主催した「ネット社会の情報と言論」というシンポジウムだった。興味があれば、藤代裕之氏の gatonewsというブログでシンポジウムのテープお越しがアップされたから、読んで見てください。(上の記事は「Foreign Journalists Club of Japan(FCCJ)」のジャーナリズム・コンテストに提出したものだけど、残念なことに、優勝は逃した。)

まぁ、このテーマについても、いっぱい書きたいけど、このエントリーはもう長くなっちゃって。今度に続けるね。来週はヨーロッパに行って、ハンガリーブダペストにある「Global Voices Summit」でパネルディスカッションでプレゼンテーションをする予定だから、準備しなくちゃ。

それでは皆さん、あらためて、ありがとうございます。

世間と空気

数週間前に佐々木俊尚氏というITジャーナリストについての情報を探して偶然に「space journal」というウェブジャーナル(グループブログかな?)をはじめて見てかなり感心した。g86という4人の東工大建築学科3年生の学生が「主にインタビューをし、その内容と共に論文のようなものを添えて発信していく」という目的で、今までは10つのインタビューをして、それをテープ起こしをした。

まずそういうことはだいぶ時間がかかるよね。数か月の間に10つのインタビューをするというのを最初に見たときはビックリした。すごくない?で、今まではその中の佐々木俊尚氏の一つのインタビューしか読んでないけど、佐々木氏の話がすごい興味深い。というわけで、確かに他のインタビューも面白いと思う。是非見てご覧ください。

佐々木氏のインタビューの中の一番面白い部分は特に最後のほうで、『空気感』と『世間』というそもそも興味を持っていた言葉のこの話だった:

佐々木氏—最近注目しているのは「空気感」というキーワード。インターネット上にある「空気感」はその中にいる人間にしか可視化されていない。それでは、サークル外の人間はどうやって可視化していくのかっていうことは重要な問題なんじゃないかと思いますね。ブログってそこがある程度可視化されているような気がしますね。テキストの形式でみんな顔文字なんかも使ったりして。それでもう一段階ですよね。行間から滲みでるような何かを作って、それが言語なのか記号なのかよく分からないですけど、それによって可視化されるものには可能性がありますよね。それはブログだけじゃなくて、それこそ空間だとかメタバースとかそういうものも含めて、そこに漂っている空間をどうやって可視化していくのかっていうことは重要だと思います。できれば「空気感」さえ検索可能になればすごくいいですよね。

この一節を次の英語の文章に翻訳した:

Sasaki: Recently, I have been paying attention to the keyword “kuukikan” (”sense of air”). This “kuukikan” on the Internet is visible only to people who are inside it. The problem that I think is then very important is the question of how those outside this circle of people can begin to visualize [the “kuukikan”]. Blogs, I have a feeling, are [places] where to a certain degree this is being visualized. Using emoticons all from the form of text, this is one more step. Creating things which seep through the lines of text — they can be words or symbols, or whatever — but there is the possibility of something being visualized through them. What is important I think is how to visualize the atmosphere that hangs in these places, not only blogs but precisely these kinds of spaces, metaverses and so on. I think it would be fantastic if only it became possible to search the “kuukikan”.

まぁ、確かに英語の「sense of air」という表現は「空気感」の意味をあまり通じないかもしれないけれど、それでもとにかく何となく日本語のできない人々に佐々木氏のこの話を紹介したかったので英語に翻訳したね。

なぜ特にこの部分を伝えたかったというと、僕は一年前から日本語のレベルが進んできたとともにこういう微妙に面白くて説明のできない日本語と外国語(つまり英語)の深い違いについては気になって、例えば柳父章氏の「翻訳語成立事情」などの本を読んで、確かに日英の翻訳の視点から見ると言語というのは思ったより複雑な概念だ。

というより、翻訳自体が複雑だ。『空気』というのをどういうふうに訳したいいのだろうか?で、『世間』は?『society』とは違うでしょう。

とにかく佐々木氏の話の中の特に印象に残ったことは彼のブロガーについてのこの説明だった:

僕にとってジャーナリズムっていうのは時代の「空気」をいかに言葉として定着させていけるかどうかっていうそこのトライアルの連続ですね。

英語の翻訳は:

For me, what is called journalism is the continuous attempt to somehow fix in words the “kuuki” of the era.

なんとなく素敵な言い方だと思うね。僕もそういうジャーナリズムをやってみたいなー。

ニュースとは何

ニュースというのは、結局どういうものだろう。最近よくわかんなくなっちゃった。というか、確か『ニュース』という従来の意味が変わりつつある。

去年同時期の僕は、ブログなどという『新メディア』はほとんど読んでなかったし、ニュースというものは新聞の記事、テレビの番組、いわゆる放送メディアばかりだったんだ。もちろんインターネットを毎日のように使っていたんだけど、『ニュース』というのは決まった意味で、『空から落ちる』というイメージで、自分とは直接な関係のないものだったんだ。

でも今の立場から見ると、この一年間でメディアに対しての視点がだいぶ変わってきたというのに気がついた。それはどうしてかというと、やっぱりブログの世界に入ったんだから。新聞はインターネットでもあまり読んでないし、テレビはたまに見るけど、それはニュースではなく、単なる楽しみのために、というわけだ。

で、ブログの世界というのは、どいうところだろうね。まぁ、やっぱり違う。というか、規模が違う。もちろんすごい人気のある(アイドルなどの)ブログもあるけど、ほとんどはそうじゃないと思う。2、3人の読者しかないブログもあるでしょう。

そういうふうに考えると、今まで数万人の視聴者の従来メディアの人々が、こういうローカル規模のソーシャルメディアについては『分かってない』というのは当たり前なことだ、と僕は思う。

それから、従来メディアとは違って、ブログというのは上からコントロールすることのできないものだ。anti-monosというブロガーがこれについてこういうふうに書いた

既存のマスコミが絶対に理解できない、かつ生理的にも受け付けられないネットの特徴は「編集権を読者に委ねている」ということ。新聞、ラジオ、テレビと既存のマスコミはすべてニュース価値をマスコミの側で判断し、それを受け手に与えるという構造だった。何をどう扱うかは最初から最後まで、すべてマスコミ次第。つまり「編集権を完全にコントロールできる」状態。言い方を変えれば完全なる「押し付け」だ。だから、マスコミはブログやSNSなど受け手の側が発信、編集するというのは生理的にも受け入れられない。

そうそう。

『ニュース』という概念自体が変貌しつつある。次のエントリーでこの話を続ける。

外国語とは

自分の母国語として読むことと、外国語として読むことはやっぱり、印象が違う。日本語が読めるようになって以来、よくそういうことに気がついた。

だけど、この「外国語」という言葉自体は人によって、国によって、考え方によって、意味も違う。例えばヨーロッパやアメリカ、カナダ、オーストラリアなどのたいていの人では、「外国語」という言葉を聞くと「英語」、「フランス語」、「スペイン語」、「ドイツ語」などのほぼ同じ語族の言語がすぐ頭に浮かぶ。確かに最近多くの西洋人は中国にも注意を集中しているのだから「中国語」も浮かぶだろうと思うけど、それでもその中で実際に中国語を外国語として喋れる人はほとんどいない。そういうふうに見ると、実際に触れた「外国語」というものと、育ってきた「母国語」というものとの壁を克服することは、西洋人にとって単なる「マッピング問題」にすぎないという普通の考え方が、たいして驚くことではない。そういう考え方ではつまり、外国語との壁を克服することが、外国語の言葉を一つずつ並べて、意味を母国語の意味と一つずつ合わせて、それからそのマッピングを暗記する、という行為である。

私はケベック出身でケベック州で育ったので子供の頃からフランス語を勉強してきて、フランス語を聞いたらほとんど考えずに分かる。確かにそれがスキルとして便利だけど、実は日本に来て日本語を勉強し初めてからフランス語を喋れなくなってしまった。それでも、フランス語と関連づけている経験は記憶の奥底に残っているから今でも聞いたらすぐ分かる。

日本語の場合はそうではない。4年くらい前に日本に初めて来て、日本語の勉強を始めて、それから経験を積んで、だんだん日本語の言葉の意味が分かるようになってきた。それで上達するにつれて、日本語と英語との差は、フランス語と英語との差と比べるとかなり大きい、というのを気が付いてきた。また、その差を克服するということは、単なる「マッピング問題」どころか、むしろ環境や文化、社会などの歴史的な深い繋がりに関わる複雑な現実から生まれた「意味のウェブ」という、外国人として馴染みのない世界に飛ぶこと、というのである。

さて、このエントリーは「外国語として読むこと」という文から始まったのだからまたそこに戻ろう。私の「外国語」である日本語で書いた鈴木孝夫氏の「外国語と日本語」という本を今読んでいて、そこの次の一節を引用する:

外国の子供たちの行動、子供向けの絵本や資料は、文化情報の宝庫である。ところが私たち日本人にとって、日本にいて最も取りにくい情報が実はこの外国の子供が、いったい何を読んでいて、何を知っていて、どう行動するのかといったことなのだ。

高級な文学書や哲学の本、難解な社会科学の文献などは、手をつくせば日本でもほとんど入手可能である。しかし、それを書いた人々が育った文化的背景は暗黙の前提部分であり、また本を書いた人々にとっては極く当たり前のことであるため、大人用の立派な本には全く顔を出さないものなのである。

この一節を数日前に初めて読んだ時に、「なるほど」というふうに思った。やっぱりそうだ。言語学などの分野の或る学者が今、世界中の言語を理解するために一生懸命探している「普遍文法」という基本的な言語のルールというのは、私の「外国語」の世界に飛ぶ経験から見ると、残念ながら存在しない「ルール」だと思う。なぜなら、「言語の基本」そのものは、文法や構文、数学的な言語理論などの専門的な概念に隠れているわけではないからである。むしろ鈴木氏が書いたとおり、子供の絵本や資料など、つまり育った環境、文化、それから社会などの「文化情報の宝庫」には、言語の普遍的な「基本」があると私は思う。