外国語とは

自分の母国語として読むことと、外国語として読むことはやっぱり、印象が違う。日本語が読めるようになって以来、よくそういうことに気がついた。

だけど、この「外国語」という言葉自体は人によって、国によって、考え方によって、意味も違う。例えばヨーロッパやアメリカ、カナダ、オーストラリアなどのたいていの人では、「外国語」という言葉を聞くと「英語」、「フランス語」、「スペイン語」、「ドイツ語」などのほぼ同じ語族の言語がすぐ頭に浮かぶ。確かに最近多くの西洋人は中国にも注意を集中しているのだから「中国語」も浮かぶだろうと思うけど、それでもその中で実際に中国語を外国語として喋れる人はほとんどいない。そういうふうに見ると、実際に触れた「外国語」というものと、育ってきた「母国語」というものとの壁を克服することは、西洋人にとって単なる「マッピング問題」にすぎないという普通の考え方が、たいして驚くことではない。そういう考え方ではつまり、外国語との壁を克服することが、外国語の言葉を一つずつ並べて、意味を母国語の意味と一つずつ合わせて、それからそのマッピングを暗記する、という行為である。

私はケベック出身でケベック州で育ったので子供の頃からフランス語を勉強してきて、フランス語を聞いたらほとんど考えずに分かる。確かにそれがスキルとして便利だけど、実は日本に来て日本語を勉強し初めてからフランス語を喋れなくなってしまった。それでも、フランス語と関連づけている経験は記憶の奥底に残っているから今でも聞いたらすぐ分かる。

日本語の場合はそうではない。4年くらい前に日本に初めて来て、日本語の勉強を始めて、それから経験を積んで、だんだん日本語の言葉の意味が分かるようになってきた。それで上達するにつれて、日本語と英語との差は、フランス語と英語との差と比べるとかなり大きい、というのを気が付いてきた。また、その差を克服するということは、単なる「マッピング問題」どころか、むしろ環境や文化、社会などの歴史的な深い繋がりに関わる複雑な現実から生まれた「意味のウェブ」という、外国人として馴染みのない世界に飛ぶこと、というのである。

さて、このエントリーは「外国語として読むこと」という文から始まったのだからまたそこに戻ろう。私の「外国語」である日本語で書いた鈴木孝夫氏の「外国語と日本語」という本を今読んでいて、そこの次の一節を引用する:

外国の子供たちの行動、子供向けの絵本や資料は、文化情報の宝庫である。ところが私たち日本人にとって、日本にいて最も取りにくい情報が実はこの外国の子供が、いったい何を読んでいて、何を知っていて、どう行動するのかといったことなのだ。

高級な文学書や哲学の本、難解な社会科学の文献などは、手をつくせば日本でもほとんど入手可能である。しかし、それを書いた人々が育った文化的背景は暗黙の前提部分であり、また本を書いた人々にとっては極く当たり前のことであるため、大人用の立派な本には全く顔を出さないものなのである。

この一節を数日前に初めて読んだ時に、「なるほど」というふうに思った。やっぱりそうだ。言語学などの分野の或る学者が今、世界中の言語を理解するために一生懸命探している「普遍文法」という基本的な言語のルールというのは、私の「外国語」の世界に飛ぶ経験から見ると、残念ながら存在しない「ルール」だと思う。なぜなら、「言語の基本」そのものは、文法や構文、数学的な言語理論などの専門的な概念に隠れているわけではないからである。むしろ鈴木氏が書いたとおり、子供の絵本や資料など、つまり育った環境、文化、それから社会などの「文化情報の宝庫」には、言語の普遍的な「基本」があると私は思う。