kenan氏とlyphard氏は日本の「gnarlykitty」?

gnarlykitty」というのは、タイのブロガーのハンドルネーム。彼女のエントリーはほとんど友達が読むもので、取り上げるトピックはガジェット、ビデオ、音楽、バンコックのクラブシーン、学校に対しての文句など。ブログの色はピンク、モットーは「Oh! See what the cat drags in!」というふざけたたキャッチフレーズ。

2006年の秋には、gnarlykitty氏はバンコックの大学に通っていた。ジャーナリストという意図もなくて、ごく普通の学生だった。で、ある日、gnarlykitty氏は突然台風の目になった。

それは2006年9月19日、タイの王国陸軍が無血クーデターを起こした日だった。幾つかの英語で書いているタイのブログがいきなり世界中の人々の注目を浴びて、「gnarlykitty」はその一つとしてヒット数が急に上がって、彼女はあの瞬間から世界の舞台でクーデターの目撃として情報を流す役目を果たすことになった。海外にいる人が細切れの情報を探して、それでサーチエンジンを通じて彼女のブログをたまたま見つけて、あるプロジャーナリストも彼女の書いた文章を記事で引用したまで。その結果、元々そういうつもりはなかったのに、彼女は考えずに「random act of journalism」を犯して、結局gnarlykitty氏というブロガーがしばらくの間有名な「市民ジャーナリスト」になった。

私はグローバル・ボイスの創立者の一人のレベッカ・マッキノン氏(現在香港大学の准教授)から、一年ぐらい前にこのgnarlykittyの話をはじめて聞いた。正直言うと、最近までは私にとってあまり目立たない話だと思っていた。偶然適時適所に居合わせることで、「ジャーナリスト」という肩書きがあるブロガーに付けられるようになるって、別に驚くことではない、というふうに考えていた。

でもこの2週間ずっと考えているのは、秋葉原通り魔の話の中の、kenan氏とlyphard氏がustで事件を中継したことは、gnarlykitty 氏の「random act of journalism」という「市民ジャーナリズム」のことと似ているのではないか?というか、kenan氏とlyphard氏のやったことは、ある意味でgnarlykitty氏のやったことより、ずっと面白くて、市民メディアの革命として画期的だと私は思う。

でも基本的には、両方も似ている。gnarlykitty氏も、kenan氏とlyphard氏も、同じようにメディアを置き換える意図はもちろん、ジャーナリストになる考えも全くなかった。しばらくジャーナリストの立場にたっても、その後すぐ普通の生活に戻る。クーデターの一週間後では gnarlykitty氏がこう書いた

... I am no expert at the subject (Coup, or politics in general). I don't even know how to use some of the terms to identify those "officials" in Thai or even in English. But the reason why I am blogging about this is that it is the least I can do to help report what is really going on while other channels of communications are altered, tampered, or even stopped.

私はこの問題(クーデター、または一般の政治)の専門家ではない。タイ語でも英語でも、あの「当局」を示す用語の使い方さえ分からない。でもこのことについてブログで書く理由は、他のコミュニケーション経路が変えられ、改ざんされ、妨害までされる中で、実態を伝えることが私にできるせめてものことだ。

そして、lyphard氏が11日に運営しているブログ「ぐんにょりくもりぞら」でこう書いた

今回の件はこれほど大きな事件がustという個人が配信するメディアを用いて配信された恐らく日本初(下手したら世界初)の事例ですので大事になるのも仕方がない、記事にしてもそれをやらかした張本人が書いたものなのだから、というのは頭では理解しています。


しかし、私がしたのは普段の延長でしかありません。
ついさっきまでしたリナカフェの様子を中継していたのの延長だし、記事も普段のぐんにょり日記でしかありません(カテゴリがぐんにょりなのもその為)

gnarlykitty 氏の「random act of journalism」も、今回のkenan氏とlyphard氏の生中継も、自分なりに藤代裕之氏が書いた「『野次馬』と『報道』の境界」の根本を揺るがした。両方も、ある意味で普段の生活の延長で、適時適所に居合わせることで、境界が融解して、そのときまでの『野次馬』の立場が突然『報道』の立場になった。

しかし、この2つの間で、何かが違う。それはいったい何なのか。

よく考えると、違いはいくつかあるのだが、もっとも重要なのが「観客」と「反応」だと私は思う。gnarlykitty氏の場合は、観客は海外の人々で、人気があったのは書いた情報が大手メディアの報道より詳しかったからだ。それと比べて、kenan氏とlyphard氏の場合は視聴者がほとんど日本人で、その中継の人気は好奇心と興奮という感情から生まれたようだ。それから反応は、gnarlykittyの場合、海外の人びとにクーデターのことについて伝えられたこととして、高く評価された。それと違って、kenan氏とlyphard氏の生中継は、「不謹慎だ」とか、「異常だ」などという非常に厳しい反応がきたそうだ。

でも私は、kenan氏とlyphard氏がやったことは、善悪は置いておいて、海外の目からみるとかなり画期的なターニングポイントだったと思われる。Lyphard氏が書いたとおり、確かに「世界初」だった。なのに、やったことは、日本意外では全く知られていない。(私の一つの記事意外は)ほとんど報道されていない。

それは残念なことだと私は思う。どうしてかというと、今回の通り魔事件を中継することがいいか、悪いか、という価値判断ではなく、しょうがなくてこれからはこういう「random acts of journalism」がだんだん増えるでしょう。でも海外の「市民ジャーナリズム」についてのディスカッションでは、今回の秋葉原事件の生中継という例は、今まで一つもなかったでしょう。通り魔事件の中継はgnarlykitty氏のような評価の高い市民ジャーナリズムの経験とはまったく違うし。そう考えると、世界中のインターネットウーザーはkenan氏とlyphard氏の経験の面、それから日本のウェブ社会の反応の面、マスメディアの反応の面、そのすべてのことから学ばないと本当にもったいない、だと私は思う。

私たちがこれから「メディア」という非常に権力を持つ立場になるなら、日本人だけではなく、世界中のインターネットユーザーはこういう経験が増える。kenan氏とlyphard氏の「モラルジレンマ」に考えてみると、その前に私たちは精神的な準備が必要のではないか。